日本経済新聞 2025年8月15日(金)朝刊 春秋の要約と満州引き揚げ・抑留の記録
春秋の引用
召集令状がきたのは午前8時。入営は当日の午後6時。「米3合、ビール瓶、兇器(きょうき)」を必携せよ――。木山捷平は小説「大陸の細道」に、1945年8月12日に旧満州(現中国東北部)の新京(長春)で、着のみ着のまま市街戦に駆り出されたときの様子を描いている。
▼9日未明に国境を越えたソ連軍は、多くの日本人が住む新京に迫っていた。そんななかで、42歳の主人公は同年配の男たちとともに市内の公園に集められ、戦車への自爆攻撃の訓練を受けるのだ。持参のビール瓶を火炎瓶に、包丁を銃剣に。急ごしらえ装備に「冗談じゃねえぞ」の悲鳴が漏れる。作家の体験のままという。
(有料版日経新聞より引用)
終戦直後の満州で何が起きたのか
満州の位置と当時の日本人居住状況
満州は、今の中国東北部にあたる地域で、当時は日本の「満州国」と呼ばれていました。
終戦直前の1945年夏、この地にはおよそ150万人もの日本人が住んでいたと言われます。
その多くは、農業開拓団や鉄道・鉱山で働く労働者、そして家族連れの民間人でした。
「なぜそんなに多くの日本人がいたの?」と疑問に思う方もいるでしょう。
これは、日本政府が「王道楽土」という理想を掲げ、国策として多くの人を送り込んだためです。
豊かな土地で新しい生活を築けると信じて渡った人たちでしたが、終戦直前に状況は一変します。
ソ連軍の侵攻と市街戦の実態
1945年8月9日未明、ソ連軍が日ソ中立条約を破って満州国境を越えます。
この侵攻は、わずか数日の間に満州全土へと広がりました。
新京(長春)では、戦える武器などほとんどない状態で、民間人も市街戦に動員されます。
ビール瓶を火炎瓶に、包丁を銃剣代わりにする…そんな無謀な準備で戦車に立ち向かおうとしていたのです。
当時の記録や証言によれば、準備された防衛はほぼ意味をなさず、多くの市民が逃げ惑う中で犠牲になりました。
木山捷平が描いた場面は、決して誇張ではなく、現実そのものでした。
民間人への被害とその規模
戦闘と混乱の中、多くの日本人が命を落としました。
終戦後の混乱期に、旧満州で亡くなった日本人民間人はおよそ24万人とされています。
これは、戦闘だけでなく、飢えや寒さ、暴行などによる犠牲も含まれます。
特に農村部の開拓団は、逃げる手段もなく、現地で孤立しがちでした。
厳しい冬を前に食糧は底をつき、避難中に力尽きる家族も少なくありませんでした。
シベリア抑留とは
抑留された人数と背景
終戦後、多くの日本兵や民間人男性がソ連によって捕虜となり、シベリアへと送られました。
いわゆる「シベリア抑留」です。
抑留者は軍人・軍属・民間人を合わせて57万人以上。
そのうち約6万人、つまりおよそ1割が厳しい環境の中で命を落としました。
過酷な環境と死亡率
シベリアは冬になると氷点下40度にもなる極寒の地です。
抑留者たちは、薄い服とわずかな食料で、鉱山や鉄道建設などの重労働を強いられました。
死亡の主な原因は、飢えと寒さ、そして過労でした。
現地での記録によれば、
- 1日あたりの配給は黒パン数百グラムとスープだけ
- 寝る場所は暖房のないバラック
- 労働時間は1日12時間以上
といった過酷さだったといいます。
抑留者の証言から見える現実
元抑留者の証言には、仲間の死を看取りながらも、生き延びるために雪を溶かして水を作った話、
空腹をしのぐために靴底の皮を煮て食べた話などが残されています。
こうした記録は、今も全国各地の資料館や証言集で見ることができます。
「戦争は終わったらすぐ平和」ではなかった現実
8月15日以降も続いた混乱
玉音放送があった8月15日で戦争が終わったと私たちは思いがちですが、実際にはその後も多くの戦闘や混乱が続きました。
満州ではソ連軍の進軍が止まらず、日本人の引き揚げもすぐには始まりませんでした。
逃げる途中で略奪や暴行の被害に遭った女性や子どもも多かったと記録されています。
なぜ戦争終結は難しいのか
戦争は、宣言一つでピタリと止まるものではありません。
特に領土や資源をめぐる思惑が絡むと、終戦後も占領や報復行為が続くことになります。
満州のケースでは、ソ連は終戦後も軍事行動を継続し、占領地での資源確保や捕虜の確保を行いました。
現代への教訓
この歴史から、私たちは「戦争は始めるより終わらせる方がずっと難しい」という現実を学びます。
また、戦争の影響は、戦場だけでなく民間人の生活や命にも深く及ぶことを忘れてはいけません。
戦後80年で明らかになった事実
最近の研究や証言の発掘
近年、戦争体験者の証言や当時の資料が改めて注目されています。
特に満州からの引き揚げやシベリア抑留に関する研究は進み、新しい事実が見つかっています。
若い世代にどう伝えるか
戦後80年が経ち、直接体験を語れる人は少なくなっています。
そのため、映像記録やデジタルアーカイブの活用が広がっています。
学校教育でも、地域史や家族の体験談を取り入れる動きが出ています。
歴史を忘れないための取り組み
全国各地で行われている平和記念館や展示会、慰霊式典などは、戦争を身近に感じるきっかけになります。
女性や子どもの視点での体験談も多く集められ、当時の生活のリアルが伝わるようになっています。
まとめと読者へのメッセージ
終戦直後の満州で起きたことやシベリア抑留の現実は、今の私たちにとって遠い昔の出来事のように感じるかもしれません。
でも、当時そこにいた人々にとっては、命がけの毎日であり、突然生活が崩れ去る恐怖との闘いでした。
今の平和は、そうした犠牲の上に築かれています。
だからこそ、歴史を学び、知り、語り継ぐことが大切です。
過去を知ることは、未来を守る力になるはずです。