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【徹底解説】長嶋茂雄氏 お別れの会|王貞治氏・松井秀喜氏の弔辞と3万本の「太陽」。ミスターが遺したメッセージ
皆さん、こんにちは。
2025年11月21日。この日は、私たち野球ファンにとって、そして多くの日本人にとって、一つの時代が静かに、しかし温かく幕を下ろした日となりました。
東京ドームで行われた、ミスタージャイアンツこと長嶋茂雄さんの「お別れの会」。
テレビのニュースやネット記事でその様子をご覧になり、胸を熱くされた方も多いのではないでしょうか。
画面越しにも伝わってくる、溢れんばかりの愛と感謝。
「永遠の野球少年」が旅立ってから約半年が経ちますが、改めてその存在の大きさに気づかされた一日でした。
「ニュースのダイジェストだけでは物足りない」
「王さんや松井さんが何を語ったのか、全文に近い形でもっと深く知りたい」
「祭壇の『3万本の花』にはどんな意味があったの?」
そんなふうに感じている方のために、今回は報道された情報をあらゆる角度から整理し、あの日東京ドームで何が起き、どんなメッセージが発信されたのかを、女性ならではの視点で丁寧にまとめてみたいと思います。
単なるニュースのまとめではありません。ミスターが私たちに遺してくれた「太陽のような生き方」を、一緒に振り返っていきましょう。

長嶋茂雄氏「お別れの会」開催概要
まずは、今回のお別れの会がどのような形で行われたのか、基本情報を整理しておきましょう。
「誰でも参加できたの?」「どんな雰囲気だったの?」と気になっている方もいらっしゃると思います。
当日は、主催である読売新聞グループ本社と読売巨人軍のもと、ミスターの庭とも言える「東京ドーム」で盛大に執り行われました。
| 項目 | 内容 |
| 開催日 | 2025年11月21日 |
| 場所 | 東京ドーム |
| 関係者の部 | 午前10時30分 開式 |
| 一般の部 | 午後3時 ~ 午後7時受付終了 |
| 主な内容 | 弔辞、献花、特別映像上映 |
| ドレスコード(一般) | 平服、ユニフォーム着用可 |
異例の「ユニフォーム着用可」が示すもの
ここで特に注目したいのが、一般参列者への案内です。
通常、こうした式典では喪服が一般的ですが、今回は「平服、ユニフォーム着用可」とアナウンスされました。
これは非常に珍しいことですが、同時にこれ以上ないほど「長嶋さんらしい」計らいだと思いませんか?
報道映像を見ても、黒いスーツの方に混じって、背番号「3」のオレンジ色のユニフォームを着たファンの方がたくさん映っていました。
「湿っぽいのは似合わない。みんなで野球の話をしよう」
そんなミスターの声が聞こえてきそうな演出です。
形式にとらわれず、ファンが一番自分らしくいられる格好で送り出す。この一点においてすでに、この会が単なる儀式ではなく、ミスターとファンの「最後の交流戦」であったことが分かります。
圧巻の「太陽の祭壇」と背番号3
ニュース映像で最も目を引いたのが、センターバックスクリーン前に設けられた巨大な祭壇ではないでしょうか。
「わぁ、すごいお花!」と思わず声を上げてしまった方も多いはず。
あの祭壇には、長嶋さんの人生を象徴するいくつものメッセージが隠されていました。

テーマは「太陽」
祭壇のデザインコンセプトは、ズバリ「太陽」です。
現役時代も、監督時代も、そしてリハビリ中も。常に明るい笑顔で周囲を照らし続けた長嶋さんの人柄そのものを表現しています。
使用された花の色も、鮮やかなオレンジや黄色が中心。
遺影として飾られた写真は、私たちが一番よく知っている、あのくしゃっとした満面の笑みの写真でした。
見ているこちらまでつられて笑顔になってしまうような、そんな温かいエネルギーに満ちた祭壇でしたね。
3万3333本の花に込められた「3」へのこだわり
ここで、皆さんが「えっ?」と驚くような数字をご紹介します。
この祭壇を彩るために用意された花の数、なんと「3万3333本」なのだそうです。
勘のいい皆さんなら、すぐにお分かりですよね。
そう、長嶋さんの代名詞である背番号「3」にちなんでいます。
3万本というだけでも膨大な量ですが、それをあえて「3333」まで合わせるこだわりよう。
この数字には、主催者側の「ミスターへの敬意」はもちろん、「長嶋さんならこういう遊び心を喜んでくれるはず」という想いが込められているように感じます。
計算してみると、これだけの数の花を一本一本調整して配置するのは気の遠くなるような作業です。
それでも、最後はこの数字で送り出したかった。そのスタッフの方々の熱意にも、胸が打たれます。
【関係者の部】盟友と愛弟子が語る「ミスターへの想い」
午前中に行われた「関係者の部」では、長嶋さんと共に時代を築いた盟友や、彼を師と仰ぐ愛弟子たちが、それぞれの言葉で別れを告げました。
報道された弔辞の内容を紐解くと、そこには単なる「追悼」を超えた、深い愛情と尊敬の念が溢れていました。

盟友・王貞治氏の「涙の約束」
まず何と言っても、私たちの涙を誘ったのは、王貞治さん(ソフトバンク球団会長)の弔辞です。
かつて「ON砲」として、巨人のV9(9年連続日本一)という金字塔を打ち立てた二人。
ライバルであり、親友であり、家族のような存在。
常に比較されながらも、互いにリスペクトし合っていた王さんにしか語れない言葉がありました。
王さんは、祭壇の長嶋さんに語りかけるように、こう仰いました。
「長嶋茂雄さんは永久です」
「私はどれだけ幸せな男だったか」
「日本人の誇りでした」
「長嶋茂雄は永久」。
この言葉には、肉体はなくなっても、その魂や功績は永遠に消えないという強い確信が込められています。
そして、「私は幸せな男だった」という一言。
共に切磋琢磨できたことへの感謝が凝縮されていますよね。
いつも冷静沈着なイメージのある王さんが、声を詰まらせながら語る姿に、半世紀以上にわたる二人の絆の深さを改めて感じさせられました。
愛弟子・松井秀喜氏が見た「野球の神様」
続いて、長嶋監督時代の愛弟子、松井秀喜さんの弔辞です。
松井さんと長嶋さんといえば、あの伝説の「素振り」のエピソードを思い出す方も多いでしょう。
ドラフト会議で長嶋さんが松井さんを引き当てたあの日から、二人の運命は交錯しました。
松井さんは弔辞の中で、現役時代の厳しい指導を振り返りながら、長嶋さんが纏っていた「空気感」について触れています。
「ユニフォームを着ると強烈な光を放っていた」
「野球の神様を肌で感じた」
毎日毎日、マンツーマンで行われた素振り指導。
松井さんは、長嶋さんの情熱を通して「野球の神様」を見ていたのかもしれません。
「ゴジラ」と呼ばれ、メジャーリーグでMVPを獲るまでに成長した松井さん。
その根底には、常に師匠である長嶋さんの教えがあったことを、この弔辞は雄弁に物語っていました。
大谷翔平選手やその他の参列者たち
現代のスーパースター、大谷翔平選手からの回想コメントも紹介されました。
「後光が差しているように見えた」
世代を超えて、トップアスリートにここまで言わしめるオーラ。
長嶋茂雄という存在が、時代に関係なく「憧れの象徴」であり続けていることがわかります。
その他にも、
- 告別式で弔辞を読まれた中畑清さん
- スポーツ界から武豊さん
- 芸能界から北大路欣也さん
など、ジャンルを超えた多くの著名人が参列されました。
それぞれが、それぞれの胸の中に「私だけのミスター」との思い出を持っている。それが長嶋さんの凄さなのだと思います。
【一般の部】ファンが作った長蛇の列と感謝の言葉
午後からの「一般の部」の様子も、ニュースで大きく取り上げられていました。
東京ドームを取り囲むようにできた長蛇の列。その光景こそが、長嶋さんがいかに愛されていたかの証明です。

世代を超えた「背番号3」
映像を見て印象的だったのは、ファンの年齢層の幅広さです。
現役時代をリアルタイムで見ていた高齢の方から、ご両親の影響でファンになったという若い世代まで。
そして、多くのファンが「背番号3」のユニフォームやグッズを身につけていました。
まるでこれから試合が始まるかのような熱気、でもどこか寂しげな静けさ。
相反する感情が入り混じる独特の空間だったようです。
SNSなどを通じてファンの声を見ると、
「ありがとう、ミスター」
「昭和、平成、令和と駆け抜けてくれてお疲れ様」
といった、感謝と労いの言葉が多く見られました。
湿っぽい「さようなら」ではなく、明るい「ありがとう」。
ファンもまた、長嶋さんの「常に笑顔」という教えを守って、笑顔で見送ろうとしていたのかもしれませんね。
不屈の精神「リハビリ」と「家族への愛」
さて、ここからは少し視点を変えて、華やかな表舞台の裏にあった「長嶋茂雄という人間の真の強さ」についてお話しさせてください。
今回の報道や特集記事を通じて、晩年の壮絶なリハビリ生活やご家族との絆について改めて知り、心を打たれた方も多いと思います。
20年以上にわたるリハビリ生活の真実
長嶋さんが脳梗塞に倒れたのは、2004年3月。
あのアテネオリンピックの日本代表監督として、日の丸を背負う直前のことでした。
一茂さんの緊急会見の様子を、今でも鮮明に覚えています。
右半身に麻痺が残る。
言葉も思うように出ない。
かつて華麗なプレーでファンを魅了したスーパースターにとって、それはどれほど残酷な現実だったでしょうか。
しかし、ミスターはそこでも「長嶋茂雄」であり続けました。
「もう一度、グラウンドに立ちたい」
その一心で、想像を絶するリハビリ生活をスタートさせたのです。
報道によれば、その内容はアスリート顔負けのものでした。
- 毎朝45分の散歩
- 週3回の病院での筋力トレーニング
- 「サコーメソッド(脳筋連関の促進)」の実践
これらを、なんと20年以上も、雨の日も風の日も休まずに続けたのです。
リハビリを担当された酒向正春先生も、その精神力には舌を巻いたといいます。
「奇跡」は待つものではなく、自らの努力で起こすもの。
晩年の長嶋さんは、バットではなくリハビリを通じて、私たちに不屈の精神を見せてくれていました。

50年間キープし続けた「77kg」のプロ意識
私が今回、最も驚愕し、そしてプロフェッショナルとしての凄みを感じたのが、このエピソードです。
長嶋さん、現役引退から亡くなるまでの約50年間、体重を現役時代と同じ「77kg」に維持し続けていたそうなのです。
これ、本当に信じられますか?
私たち一般人でも、少し気を抜けば体重は増減してしまいます。
ましてや、年齢を重ね、身体の自由が効かなくなれば、運動量も減り、体型維持は困難を極めるはずです。
それなのに、長嶋さんは「飲まない、食わない」といった厳しい食事制限と運動で、177cm、77kgという「ベストな長嶋茂雄」を守り抜きました。
なぜそこまで?
それはきっと、「ファンが見ている長嶋茂雄」を裏切りたくなかったからではないでしょうか。
「いつ人前に出ても恥ずかしくない姿でいたい」
その美学、矜持。
ユニフォームを脱いでもなお、彼は24時間365日、プロの野球選手だったのです。
支え続けた家族の絆
そんな過酷な闘いの中に、安らぎがなかったわけではありません。
次女の長嶋三奈さんをはじめ、ご家族の献身的なサポートがありました。
特に三奈さんは、公私にわたって常に長嶋さんに寄り添い、その笑顔を支え続けてこられました。
また、亡き奥様への想いも強かったと聞きます(奥様は透析治療をされていたそうです)。
孤独なヒーローではなく、愛する家族と共に歩んだ晩年。
リハビリの最中も、きっとあの笑顔で周囲を和ませ、家族との時間を大切にされていたのでしょう。
未来へ受け継ぐ「長嶋茂雄」の魂
お別れの会は、一つの区切りではありますが、終わりではありません。
長嶋さんが遺した魂は、これからもしっかりと受け継がれていきます。
「長嶋茂雄賞」の創設
長嶋さんの功績を未来永劫伝えていくために、「長嶋茂雄賞」の創設が予定されているとの報道がありました。
具体的な選考基準などはこれからになると思いますが、きっと単なる「数字」や「記録」だけではない賞になる予感がします。
「ファンをワクワクさせたか」
「記憶に残るプレーをしたか」
そんな、ミスターらしい基準で選ばれる選手が出てくるのが楽しみですね。
ミスターが遺した「3つの教え」
最後に、長嶋さんの89年の人生を通して、私たちファンが受け取ったメッセージをまとめてみたいと思います。
これは野球に限らず、私たちの人生の指針にもなるものです。
- 「ファンを喜ばせるプレーを追求する」自分のためではなく、相手のために全力を尽くす。サービス精神の塊であった長嶋さんの生き方は、どんな仕事においても大切な姿勢です。
- 「常に笑顔を見せる」どんなに辛いリハビリの中でも、カメラの前では笑顔を絶やさなかった長嶋さん。笑顔は自分を強くし、周りを幸せにする最強の武器だと教えてくれました。
- 「万に対する優しさ」誰に対しても分け隔てなく接する優しさ。偉ぶらないその姿勢こそが、彼が「国民的スター」であり続けた最大の理由でしょう。

2025年6月3日、肺炎のため89歳で旅立たれた長嶋茂雄さん。
しかし、王さんの弔辞にあったように、「長嶋茂雄さんは永久」です。
東京ドームに行けば、天井にはこれからも背番号3が輝き続けます。
そして何より、私たちの記憶の中で、あの太陽のような笑顔は決して色褪せることはありません。
今回のお別れの会は、悲しい別れの場ではなく、「ありがとう」を伝え、長嶋さんの魂を私たちが引き継ぐための「決起集会」だったのかもしれません。
ミスターが教えてくれた「明るさ」と「諦めない心」。
これを胸に、私たちもまた、それぞれの人生というグラウンドで、精一杯プレーしていきましょう。
長嶋茂雄さん、本当に、本当にありがとうございました。
どうか天国でも、大好きな野球を思いっきり楽しんでください。
そして、空の上からこれからの野球界を、私たちを、ずっと見守っていてくださいね。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
皆さんは、長嶋さんとのどんな思い出がありますか?
ニュースを見て感じたこと、ミスターへの想いなど、ぜひ心の中で振り返ってみてくださいね。







